香山の秘蔵弟子 初代井高帰山の作品
前回までのブログを読んで頂いた方で、香山の秘蔵弟子であった初代井高帰山は、いったいどのような作品を作っていたのだろう、、と興味をもたれた方も多いと思います。
そこで今回は、以前目黒区美術館で開催された「帰山窯の100年」という図録より、初代帰山の素晴らしい作品を引用させて頂きたいと思います。
1999年11月27日~12月26日 目黒区美術館にて
初代帰山作 出石南渓白鷺浮文様(一枝瓶) 1900年(明治33年)
この作品は、香山の釉下彩作品にも似た雰囲気を持つ作品ですね。
より優雅で洗練された印象を受けます。
初代帰山作 白磁がま仙人香合 1900年~1903年
細かい細工もすばらしいです。まるで象牙の根付けのようですね。
初代帰山作 寒月梅花酒杯 1899年
実に風情漂う酒杯ですね。お酒がすごくおいしくなって、すすんじゃいそうです。(笑)
そして、やはり白磁が素晴らしいのです!
初代帰山作 白磁霊芝耳龍彫壺 1900年
そして、青磁も、、。
初代帰山作 青磁鯉耳花活 1940~1941
初代帰山作 青磁雲中鳳凰花活 1944
初代帰山は青磁の原点は玉と考えており、玉質に仕上げるため、釉薬を厚く厚くかけ、そして釉薬の下にある生地が透けて見えないように工夫したといいます。
「青磁は良く出来たものは、複雑な色と多様な光の反射の総合で、玉質のような味わいを訴えている」と考え、あえて鉄や着色鉱物などの複雑なまざりものが入ったものを使用していたと二代帰山は語っています。
言われてみれば、初代帰山の青磁作品は、まさに玉のような質感をたたえていますね。
掲載させて頂いた作品は、初代帰山の作品のごく一部ですが、香山同様、今後ますます評価されて然るべき陶芸家であると確信します。
最後にこの図録にある、初代井高帰山の年表に目を向けてみます。
「 1903(明治36)年 8月、出石陶磁器試験所を辞し、工学細木松之介(京大教授)、友田安清の紹介により横浜市の真葛焼改良法を研究。白磁の法を横浜に伝えると共に、窯元宮川香山より、染付、青磁、その他を修行。白高麗を「加賀の白魚」と称賛された。11月より、真葛で、受賞作品などを制作 明治38年まで。
1905(明治38)年 5月、宮川香山の紹介をもって、浅間の信州軽井沢製造所(三笠焼窯元)に聘される。
1914(大正3)年 4月、マット釉の研究を始める。白盛りの法を真葛の坂田氏より聞く。
(大正5年 初代香山没)
1920(大正9)年 この頃より帰山と号す。以後、二代宮川香山らとの関係の東陶会をのぞき、美術団体とは関係をもたず、制作と個展発表とに集中した活動を行う。
1921(大正10)年 軽井沢三笠ホテルに於いて、三笠焼の再興を引き受け、同時に浅間焼と改名。
1927(昭和2)年 この年、板谷波山、二代香山、沼田一雅を顧問に東京、巻頭在住の陶芸作家を中心にした「東陶会」の結成に参加。
(昭和16年 二代香山没)
(昭和20年 三代香山没)
1959(昭和34)年 7月7日真葛宮川智之助逝去のため葬儀に参列 (注 智之助は三代香山の弟で、四代を名乗り真葛窯の復興に努めていた) 」
と、初代帰山と真葛窯との縁の深さを感じさせます。
初代帰山は、初代香山に出会い弟子入りし、二代、三代、四代がこの世を去るのを見届けてきたのです。
二代帰山は、初代帰山について次のように語っています。
「青磁・染付等の研究の成果が一応得られたのは、三笠焼で香山の指導を得てからと言う事か。
この頃になると自力の青磁制作となる。
香山から得た青磁は、幸せな事に中国の青磁として一番貴ばれる北宋風だった。
帰山が金沢から上京したのはこうしたものが自由に造りたかったからだと思う。」
今日もブログを見て頂き、有難うございました。
眞葛 博士
そこで今回は、以前目黒区美術館で開催された「帰山窯の100年」という図録より、初代帰山の素晴らしい作品を引用させて頂きたいと思います。
1999年11月27日~12月26日 目黒区美術館にて
初代帰山作 出石南渓白鷺浮文様(一枝瓶) 1900年(明治33年)
この作品は、香山の釉下彩作品にも似た雰囲気を持つ作品ですね。
より優雅で洗練された印象を受けます。
初代帰山作 白磁がま仙人香合 1900年~1903年
細かい細工もすばらしいです。まるで象牙の根付けのようですね。
初代帰山作 寒月梅花酒杯 1899年
実に風情漂う酒杯ですね。お酒がすごくおいしくなって、すすんじゃいそうです。(笑)
そして、やはり白磁が素晴らしいのです!
初代帰山作 白磁霊芝耳龍彫壺 1900年
そして、青磁も、、。
初代帰山作 青磁鯉耳花活 1940~1941
初代帰山作 青磁雲中鳳凰花活 1944
初代帰山は青磁の原点は玉と考えており、玉質に仕上げるため、釉薬を厚く厚くかけ、そして釉薬の下にある生地が透けて見えないように工夫したといいます。
「青磁は良く出来たものは、複雑な色と多様な光の反射の総合で、玉質のような味わいを訴えている」と考え、あえて鉄や着色鉱物などの複雑なまざりものが入ったものを使用していたと二代帰山は語っています。
言われてみれば、初代帰山の青磁作品は、まさに玉のような質感をたたえていますね。
掲載させて頂いた作品は、初代帰山の作品のごく一部ですが、香山同様、今後ますます評価されて然るべき陶芸家であると確信します。
最後にこの図録にある、初代井高帰山の年表に目を向けてみます。
「 1903(明治36)年 8月、出石陶磁器試験所を辞し、工学細木松之介(京大教授)、友田安清の紹介により横浜市の真葛焼改良法を研究。白磁の法を横浜に伝えると共に、窯元宮川香山より、染付、青磁、その他を修行。白高麗を「加賀の白魚」と称賛された。11月より、真葛で、受賞作品などを制作 明治38年まで。
1905(明治38)年 5月、宮川香山の紹介をもって、浅間の信州軽井沢製造所(三笠焼窯元)に聘される。
1914(大正3)年 4月、マット釉の研究を始める。白盛りの法を真葛の坂田氏より聞く。
(大正5年 初代香山没)
1920(大正9)年 この頃より帰山と号す。以後、二代宮川香山らとの関係の東陶会をのぞき、美術団体とは関係をもたず、制作と個展発表とに集中した活動を行う。
1921(大正10)年 軽井沢三笠ホテルに於いて、三笠焼の再興を引き受け、同時に浅間焼と改名。
1927(昭和2)年 この年、板谷波山、二代香山、沼田一雅を顧問に東京、巻頭在住の陶芸作家を中心にした「東陶会」の結成に参加。
(昭和16年 二代香山没)
(昭和20年 三代香山没)
1959(昭和34)年 7月7日真葛宮川智之助逝去のため葬儀に参列 (注 智之助は三代香山の弟で、四代を名乗り真葛窯の復興に努めていた) 」
と、初代帰山と真葛窯との縁の深さを感じさせます。
初代帰山は、初代香山に出会い弟子入りし、二代、三代、四代がこの世を去るのを見届けてきたのです。
二代帰山は、初代帰山について次のように語っています。
「青磁・染付等の研究の成果が一応得られたのは、三笠焼で香山の指導を得てからと言う事か。
この頃になると自力の青磁制作となる。
香山から得た青磁は、幸せな事に中国の青磁として一番貴ばれる北宋風だった。
帰山が金沢から上京したのはこうしたものが自由に造りたかったからだと思う。」
今日もブログを見て頂き、有難うございました。
眞葛 博士
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