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宮川香山 帝室技芸員とは

宮川香山は明治29年に帝室技芸員に任命されました。

この「帝室技芸員」とはどのような制度なのでしょうか?

帝室技芸員の制度は明治23年に始まりました。

皇室による美術作家の保護と制作の奨励が目的で、技術のみならず人格をも考慮し選定が行われました。

任命されれば、年頭の参賀にも迎えられ、また手当てとして年金がもらえるだけでなく、宮中の依頼を受け制作する作品にはその制作費も支給されました。

明治時代の皇室から保護を受ける芸術家ということですから、それはそれは大変名誉なことでした。

55年間を通して、任命されたのはわずか79名


現在のいわゆる人間国宝「重要無形文化財保持者」は平成20年現在で110名ですから、帝室技芸員の権威をうかがい知ることが出来ます。


陶芸分野で帝室技芸員になったのは、戦前で5名しかおらず、宮川香山は陶芸分野で二人目の帝室技芸員です。

「光雲懐古談」万里閣書房1929(昭和4)年1月刊という本に、帝室技芸員に任命された高村光雲がその制度について、岡倉天心や九鬼博物館長などに尋ねたときの話が記されています。

「それは別段勤めるということはない。この帝室技芸員と申すは、そういう名称を作って、美術御奨励のためにという上の厚い思(おぼ)し召しであるので、年金を給したのはいわば慰労金といったようなもので、多年我邦(わがくに)の美術界のために尽くした功労をお褒(ほ)めになった思し召しであろうと推察される。そういう御主意であろうと思うからして別段何んの役目をするということはないのである。しかしまた追々何か御用もあるかも知れないが、今日(こんにち)の処ではこれという御用はないようである。そこで実は我々の考えであるが、御参考までに申し述べて置くが、この帝室技芸員というものは、日本においては、美術家としてはまことに尊(たっと)い名義を下し置かれたもので、既にこの名称だけを得られただけでも光栄至極の義であるが、その上になおこの御手当として年金を給されたということは、聖上の思し召しまことに何んとも有難い次第である。それでこの高大な優渥(ゆうあく)な思し召しに対しては充分に技芸員たるものは気を附けねばならぬことと思う。すなわち美術および美術工芸のことには一層忠実でなくてはならないこと、同時にまた後進子弟に対しては親切懇篤の心をもって指導することは申すまでもなし、既に帝室技芸員という名称の下に身を置くものは一層身の行いを正し、誠実を旨として、各自に行いのみだらでないよう、この名称に恥じないよう、天恩の有難いことを思うて身を慎み行いを励まなくてはならない……」という意味のことを話されたのでありました。私たち技芸員はまことに御尤(ごもっとも)のことであると存じたわけでありました。「光雲懐古談」万里閣書房1929(昭和4)年

特に「後進子弟に対しては親切懇篤の心をもって指導することは申すまでもなし」という部分や、「一層身の行いを正し、誠実を旨として、各自に行いのみだらでないよう、この名称に恥じないよう、天恩の有難いことを思うて身を慎み行いを励まなくてはならない」という部分に帝室技芸員となることの重さを感じます。

明治29年、帝室技芸員に任命された宮川香山は、文字通り陶芸界の大御所となったのです。

やっぱり香山はすごいんです!!



今日もブログを見て頂いて、ありがとうございました。
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