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『横浜市立大学 国際文化研究紀要』

思うところがあり、3年前に入学した横浜市立大学大学院。

都市社会文化研究科で「歴史を活かしたまちづくり」について研究をしていました。


先日、大学から『横浜市立大学 国際文化研究紀要』が送られてきました。

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修士論文のタイトルは、「横浜における近代遺跡の保存のあり方について -近代埋蔵遺構の保全と都市デザイン行政との関連についての考察― 」。

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昨年の今頃は論文の執筆で悪戦苦闘していたことを思い出します。今となれば、本当に良い思い出です(笑)



論文要旨

「 横浜における近代遺跡の保存のあり方について
近代埋蔵遺構の保全と都市デザイン行政との関連についての考察 」

都市社会文化研究科 125021 山本博士

 近年横浜では、地下に眠る幕末開港期や近代の遺跡や遺物(以下「近代埋蔵遺構」と称す)が、開発工事などにより次々と発見されている。一方でその多くが開発により破壊されているという現状がある。関東大震災と横浜大空襲によってほとんどの建造物を消失してしまった横浜にとって、地下に埋蔵されている遺構は近代都市横浜の発祥と発展を目に見え触れられる形で我々に伝える貴重な断片であるといえる。
 これまで日本の埋蔵文化財保護行政では、時代の古いものほど重要視される傾向があり、近代の遺構については積極的な保護の対象となっていなかった。しかし、横浜が保有する「近代埋蔵遺構」は、開港地ならではの他地域にはみられない歴史的価値を持つ。以上に示した理由から、横浜における「近代埋蔵遺構」の保存のあり方を検討する必要性を強く認識したことが本研究の動機である。
 横浜の「近代埋蔵遺構」の保存のあり方を対象にした研究はほとんどなく、関連研究として、埋蔵文化財保護行政の強化に関する研究 や考古学的調査により出土した幕末・近代の遺物・遺構の分析を行う考古学的研究 、また近代横浜の都市形成史研究 などがあるが、「近代埋蔵遺構」をどう保存するかについては検討の余地がある。なお、本研究では、埋蔵文化財保護政策のみならず、都市計画という異なる分野の研究を取り入れ考察を行った。これは、横浜では公園などの開発事業に伴って偶然発見された「近代埋蔵遺構」を、都市デザイン行政により、開発に取り込む形で保存を実現させている事例が多くみられたためである。
 文化財保護政策は、時代と共に保護する対象が拡大するよう拡充が図られ、横浜では、1988(昭和63)年に横浜市文化財保護条例が制定された。この条例は、文化財保護法や神奈川県文化財保護条例では「文化財」として扱われていないものでも、横浜にとって重要なものを独自に「文化財」として「指定」・「登録」できるよう定めたものである。制定の契機となったのは「上行寺東やぐら遺跡群」の保存問題で、横浜市がこれらを保護する独自の方法を持たないことに批判が集まったことにより、他の地方自治体に比べ非常に遅れた条例の施行であった。それはこれまでの横浜が、連合国軍による大規模な接収や、高度経済成長による急速な都市化に対応するための量的な整備に追われ、遺跡が発掘されても開発整備などが優先されたことが理由だと推察できる。
 横浜における埋蔵文化財保護行政は、1998(平成10)年に文化庁による「平成10年円滑化通知」以降、中世までの遺構のみならず、近現代の遺跡についても地域において特に重要なものを「埋蔵文化財」の対象として扱うようになった。2003(平成15)年に発見された二代目横浜駅の基礎遺構の発掘調査は、横浜市が「近代埋蔵遺構」を「埋蔵文化財」として扱い、本格的に発掘調査を行った最初の事例である。その後、2009(平成21)年には「横浜市の近代遺跡及び近代建造物の保護に関する要綱」が制定され、「埋蔵文化財」として保護すべき重要な近代遺跡の基準を明文化し、横浜市文化財保護条例による「指定」・「登録」、及び「周知の埋蔵文化財包蔵地」を選定することで「近代遺跡」の保護を図ることを定めた。ここで注意すべき点は、本要綱が「平成10年円滑化通知」の制定後、10年以上の歳月を費やした点である。ここには横浜市が、戦争にからんだ負の遺産の保存問題と、幕末開港期から明治時代の近代遺跡の保存問題を一緒の問題として扱い、国の「戦争遺跡」に対する扱い方を見極めようとした背景があった。しかし、これらはそれぞれ異なる歴史背景を持つため切り分けて議論すべきである。
 このようにして、埋蔵文化財保護行政は「近代埋蔵遺構」にまで保護の対象を拡大し、2010(平成22)年9月、横浜市は9件の「近代遺跡」を文化財保護法上の「周知の埋蔵文化財包蔵地」として選定した。本論文では、この9遺跡の保全状況等を分析し、埋蔵文化財保護行政の限界と課題を次のように明示した。
・ 開発事業者が、文化財保護法に定める「周知の埋蔵文化財包蔵地」における工事の事前届出を行わなかったとしても、何の罰則もないということ
・ 「周知の埋蔵文化財包蔵地」に選定されたとしても、埋蔵文化財保護行政においては、開発業者に遺構の現地保存や記録保存を強制する権限はないこと
・ 埋蔵文化財保護行政の管轄機関である横浜市教育委員会が管理する公有地においても、「近代遺跡」の現地保存より開発が優先され、遺構が撤去されてしまっていること
・ 遺構を残すか撤去するかは、結局のところ所有者の意向次第であり、遺構の保全策としては、所有者に遺構の重要性を認識してもらうことが重要であるということ
 なお、この時選定された9遺跡は、すでに著名なものばかりでむしろ史跡に近く選定の意味がないとの指摘がある。また、うち5遺跡は遺構の発見と同時に公園整備などに取り込まれる形ですでに整備が完了していた遺跡であり、もともと遺構の破壊のリスクが低い。このような選定は、横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が協議し、実際に遺構の存在が確認できた場所だけを「周知の埋蔵文化財包蔵地」にしたことが要因のひとつであると考えられる。今後は重要な「近代埋蔵遺構」が残存している可能性のある場所を積極的に試掘し、遺構の存在や範囲を的確に把握して「周知の埋蔵文化財包蔵地」の拡充を図ることが必要である。
 ところで、そもそも横浜において幕末から近代の歴史的史資産を保存しようという運動はいつ頃からみられるのであろうか。横浜では比較的早い時期から保存運動を確認することができ、1883(明治16)年、生麦事件の事件現場を開発から守り後世に伝えるため、土地を買収し生麦事件碑を建立した運動や、1916(大正5)年に「たまくすの木」を「名木」に認定し、市の予算で保護を図るようにした運動などが確認できる。また1936(昭和11)年には、横浜史料調査委員会のメンバーが、青木市長に神奈川台場の遺構の保存を訴える稟申書を提出している。稟申書には、「横浜市ニ於ケル発祥・展進・堅固・完成ヲ物語ル遺蹤ニ属スルモノニ候」とある。
以上示したように、戦前期にすでに幕末から明治初期の歴史的資産を残そうという運動を確認でき、それらは横浜という幕末に開港した近代都市の「発祥」、すなわち都市の起源と関係していることが明らかとなった。
 戦後、幕末から明治の歴史的資産は、関東大震災と横浜大空襲でその多くが消失する。そして横浜の「まちづくり」は、連合国軍による大規模な接収や高度経済成長による急速な都市化に悩まされることとなる。人口急増による量的な整備に追われ、個性ある歴史的な周辺環境などの質の高い「まちづくり」が本格的に行われるようになるのは、1970年代に入ってからであった。この頃から展開される横浜市の都市デザイン行政の基本目標のひとつに、「歴史を大切にする」という目標が掲げられた。そして都市デザイン行政は、歴史的な資産を「凍結的に保存」するのではなく「生きた活用」を図ることに重点を置き、1972(昭和47)年のフランス山公園のフランス領事館遺構を皮切りに、元町公園の山手80番館跡・ジェラール水屋敷地下水槽跡、そして赤レンガパークの新港埠頭旧横浜税関事務所跡、さらに象の鼻パークの旧横浜税関跡と、公園の整備中に偶然発見された多くの「近代埋蔵遺構」を、開発整備に組み込む形で保全し公開してきたのである。なぜこれらが実現できたのかという点については、当時の行政担当者の座談会での証言から、「まちづくり」行政と文化財保護行政、及び関連部局との緊密な連携があったからこそ可能であったことが明らかとなった。
 横浜市は1988(昭和63)年4月、「歴史を生かしたまちづくり」をさらに推進させるため、歴史的建造物を景観面から保全し活用すべく「歴史を生かしたまちづくり要綱」を制定した。本要綱は、歴史的建造物などを登録、認定することにより維持管理、改修等に助成を行い、外観を保存し内部などは活用しながら保全を図っていく仕組みとなっている。「活用しながらの保全」であるという点や、何より「助成」が得られることは所有者にとっても大きな魅力となり、本要綱により多くの歴史的建造物の保全が実現している。また本要綱の特筆すべき点として、歴史的建造物に加えて土木産業遺構も柔軟に保全の対象とし、二代目横浜駅基礎遺構などの「近代埋蔵遺構」の保全も実現していることである。二代目横浜駅基礎遺構は、民間所有地に存在しており、要綱により民有地の「近代埋蔵遺構」の保全が実現している点に注目すべきである。今後はこれを先例とし、より積極的に要綱を活用した民有地の「近代埋蔵遺構」の保全を検討すべきである。
 横浜の都市デザイン行政が歴史的資産の「保存と活用」に取り組み始めて約25年が経過した2008(平成20)年、文化庁は、「今後の埋蔵文化財保護体制のあり方について(報告)」の中で「埋蔵文化財は歴史的・文化的資産、地域の資産、教育的資産としての意義を有し、地域づくりやひとづくりに活用できる格好の素材ともなる。したがって、埋蔵文化財はその価値に応じて適切に保存・活用されなければならない」と言及した。つまり、文化庁はこれまでの「凍結的な保存」という方針から、「保存と活用」を図る方向へ転換したのである。
 このような今こそ、「近代埋蔵遺構」の保存と活用に対し、都市デザイン行政と横浜市教育委員会が緊密な連携をとるべきタイミングであると考える。横浜市の「歴史を生かしたまちづくり」の核心は、「歴史を生かしたまちづくり要綱」や「横浜市市街地環境設計制度」などにより、所有者に対し助成や容積率のボーナスというメリットを与えながら、行政が民間に対し、歴史的建造物等の保存と活用を促す手法を確立したことにあるといえる。また都市デザイン室には、これまで25年以上にわたり、公有地における「近代埋蔵遺構」の保存と活用を実現させてきた実績とノウハウがある。また保存に対するコンセンサスを得るための周知やPR活動についても経験が豊富である。横浜市教育委員会は、都市デザイン室と連携をとりながら、これらの制度やノウハウを活用し、「近代埋蔵遺構」の保存・活用を図ることが重要である。そして、都市デザイン行政においても、今後横浜市教育委員会が調査し拡充していく「周知の埋蔵文化財包蔵地」の遺構の種類や範囲を的確に把握し、より積極的に公共事業に遺構を取り込む検討を行うべきである。
 以上、「近代埋蔵遺構」の保存のあり方は、保存と活用をテーマに、文化財保護行政と都市デザイン行政の緊密な連携のもと推進されるべきであると結論づけた。




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