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真葛香山  「能」がモチーフの噴水 (2)

なぜ初代香山は、明治14年の内国勧業博覧会に、「能」をモチーフにした作品を出品したのでしょうか。

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江戸時代まで、「能」は武家のための儀式的な芸能でした。

たとえどんな豪商であっても、町人などが能を演ずれば、身の程知らずの贅沢行為として罰せられることもあったようです。

そのような「能」が、明治維新により存亡の危機に直面します。

それまで大名により手厚い保護を受けていた能楽師が、廃藩置県などにより、生活もままならないような状況に追い込まれてしまうのです。(実際に、竹笠編みや、花火師に転身する能楽師もいたようです。)

これまでの「武士の社会」を崩壊させたのが明治維新でしたから、「能」もまさに崩壊寸前だったのです。

「能などけしからん」
「能をやる者は一人もなく、謡の声でもしたら、外から石でも投げ込まれる」

そんな時代に、その兼ね備えた胆力で、消えかかっている「能」の火を消さないよう必死に活動する一人の能楽師がいました。

彼は、休まず芸を磨き、自宅に築いた小舞台で演能を続けます。

生活に困っている能楽師のため、それまで非公開であった能を有料公開し、仲間を助けます。

その人の名は、梅若 実。
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(財)梅若会 homepage

そしてついに、消えかかっていた「能」の炎は、その光をすこしづつ強めてきます。

「能」が、外国要人との外交のもてなしに使われるようになってくるのです。

1872年(明治5年) ロシア帝国アレクセイ王子
1873年(明治6年) イタリア国王の甥、ジェノヴァ公
1879年(明治12年) ドイツ皇帝の孫
1879年(明治12年) アメリカのグラント将軍

そして、第二回内国勧業博覧会の開催される明治14年には、芝能楽堂が建設され、能楽が本格的に復興します。

また同年には、ハワイ王国のカラカウア王の前で、梅若実らにより能「猩々」が演じられるのです。


初代宮川香山が、第二回内国勧業博覧会に「能」猩々をモチーフにした作品を出品した背景には、衰退の危機にあった「能」が、再びその衰運を盛り返した時代背景が大きく関係しているのです。

次回のブログでは、初代香山がなぜあんなにリアルに猩々の噴水を作り上げることができたのか、検証したいと思います。

今日もブログを見て頂き、有難うございました。

眞葛 博士


P.S. 余談になりますが、「能」は成功した横浜商人達の間でもブームになります。
かつては武家の文化であった「能」を学び、見ることが、自らの成功をかみしめる喜びとなっていったのです。
横浜の大商人である、生糸商 茂木惣兵衛、茶商 大谷嘉兵衛も、梅若実に入門し、謡曲に熱中します。
「能の衰退と盛り返し」、そして「梅若実」のことは、去年「かながわ検定 横浜ライセンス」1級受験の受験勉強中に知ることができました。
横浜検定の勉強をしていて、それが偶然、香山研究とつながったのです。
勉強には、遠まわりや無駄というものはないのですね(笑)



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