宮川香山と骨董屋(4)
昨日見て頂いた香山の骨董品在庫台帳。
売却済みを示す「売」のスタンプがついている作品が意外に少ないのが分かります。
売却されなかった骨董品は、いったいどこに行ってしまったのでしょう。。。
私は、最後まで真葛窯に残されていたのではないかと思うのです。
研究というものは「文献や資料にあたり、ある事柄を客観的に立証していくことだと」思うのですが、今日だけはお許し頂いて、主観的に私の想像を書きたいと思います。
骨董品を扱う合資会社「宮川参考品合資株式会社」が設立されたのは明治40年。
この頃になると、金ぴかの薩摩焼や、ジャポネズムの影響を受けた西洋風磁器などの人気は下火になり、華やかで派手なものよりも、清楚、淡白な純日本風なものが流行になってきます。
外国人も、日本人が「西洋人が好むであろう」と制作した西洋風なものよりも、江戸時代やそれ以前に日本で作られてきた純日本風の作風を、本物の日本として好むようになってきます。
外国人も、相手国のほんものの伝統的文化を味わいたいと思ってくるようになってきたのだと思うのです。
香山も、晩年は純日本風の作品ばかりを作るようになってきます。
世の中のニーズだけでなく、香山自身も自国の偉大な先輩たちが築きあげてきた伝統的な純和風なものを作りたくなってきたのだと思います。
横浜に来て、薩摩焼風の作品に始まり、高浮彫り、そして華やかな釉下彩作品と、その作風を変えてきた香山。
しかしこれらの作風を経て、最後はやはり、日本だけが持つ独特の美を再認識したのだと思います。
香山が亡くなるのは大正5年ですが、大正2年くらいからの3年間の作品をみると松竹梅をあしらった花瓶や、見事な青磁茶器、備前焼風の土ものの花瓶、仁清写し、乾山風の梅の木の大皿などを制作します。
余談になりますが、高浮彫りの蟹を晩年に再度制作していますが、私は、再度蟹を作ったきっかけは別にもあると思うのです。
香山は亡くなる約一年前の大正4年3月に、帝室博物館で、明治時代に自身が制作した「蟹」を修理していることが明らかになっています。
香山は、約45年前に自分が制作した「蟹」に再び再会したのです。
そのときの香山はどのような気持ちだったでしょうか。。。
「懐かしさ」、「若き頃の熱き思い」、また「我ながらよくぞ制作したなあ」という関心するような気持ちも沸いてきたのではないでしょうか。
そして、73歳になっていた香山は「若いころの自分になど、老いてもなお負けてなんかいない!よし、もう一回もっと良い蟹を作ってやろう!」そんな気持ちになったのではないでしょうか。
(追記 その後、新たに遺作の蟹細工付きの花瓶が発見されました。その作品につきましては → http://kozan.blog.so-net.ne.jp/2009-04-09 2012年2月9日追記 )
その他の最晩年の作品はもっと、より伝統的な和風の作品です。
「蟹」を再度制作したのは、やはり修理のために自分の過去の作品に再会し、触発されたからなのではと思ってしまうのです。
(追記 源吉兆庵所蔵の渡り蟹作品の共箱には「七十三翁」と記されており、73歳のときの製作であることがわかります。これはまさに自身が明治時代に製作した蟹を修復した年であり、製作動機は修復による作品との再会ではないかと思われます。 また余談ですが田邊コレクションの渡り蟹作品の共箱には、「大正5年3月 この作品を名古屋住宅迄お届けする」という旨の記述が見られます。この作品の製作時期に関しては、文字どおり大正5年とする説と、源吉兆庵所蔵の蟹を製作した大正3年に同時に製作していたものを、お客様に届けた年月が大正5年であるという説もあるようです。 2013年2月6日追記 )
すいません、ついつい話がそれてしまいました。
明治40年代以降、真葛焼は伝統的な和風の作品を多く制作します。
そのときによき手本になるのは、古備前、古薩摩、古瀬戸、仁清、乾山などの骨董古美術品だと思うのです。
明治末期から大正と、第一次世界大戦に日本が参戦したりと、世の中は倹約を余儀なくされるようになり、骨董品の収集をするような雰囲気にはなかったと思います。
おそらく、それほど骨董品は売れなかったのではないでしょうか。
でも、安売りしたり、手放したりすることなく、最良の手本として真葛窯の参考館にずっと並んでいたのではと思うのです。
そして、、、。
大正12年、「関東大震災」が起こります。
さらに、昭和に入り「横浜大空襲」により壊滅的な被害を受け、真葛窯は窯を閉じることを余儀なくされます。
参考館にあった骨董古美術品は、残念ながらこれらの被害を受けてしまったのではないかと思うのです。
真葛窯と運命を共にしたのではと、、。
しかし、香山は、国内だけでなく海外にも、多くの作品を残してくれています!
私は微力ながら、それらの作品や資料を研究し、少しでも後世に引き継いでいくお手伝いが出来ればと考えています。
目指せ真葛博士!引き続きよろしくお願い致します。
いやあー今日は熱くなりすぎました(笑) すいません。。。
長い文章を最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
売却済みを示す「売」のスタンプがついている作品が意外に少ないのが分かります。
売却されなかった骨董品は、いったいどこに行ってしまったのでしょう。。。
私は、最後まで真葛窯に残されていたのではないかと思うのです。
研究というものは「文献や資料にあたり、ある事柄を客観的に立証していくことだと」思うのですが、今日だけはお許し頂いて、主観的に私の想像を書きたいと思います。
骨董品を扱う合資会社「宮川参考品合資株式会社」が設立されたのは明治40年。
この頃になると、金ぴかの薩摩焼や、ジャポネズムの影響を受けた西洋風磁器などの人気は下火になり、華やかで派手なものよりも、清楚、淡白な純日本風なものが流行になってきます。
外国人も、日本人が「西洋人が好むであろう」と制作した西洋風なものよりも、江戸時代やそれ以前に日本で作られてきた純日本風の作風を、本物の日本として好むようになってきます。
外国人も、相手国のほんものの伝統的文化を味わいたいと思ってくるようになってきたのだと思うのです。
香山も、晩年は純日本風の作品ばかりを作るようになってきます。
世の中のニーズだけでなく、香山自身も自国の偉大な先輩たちが築きあげてきた伝統的な純和風なものを作りたくなってきたのだと思います。
横浜に来て、薩摩焼風の作品に始まり、高浮彫り、そして華やかな釉下彩作品と、その作風を変えてきた香山。
しかしこれらの作風を経て、最後はやはり、日本だけが持つ独特の美を再認識したのだと思います。
香山が亡くなるのは大正5年ですが、大正2年くらいからの3年間の作品をみると松竹梅をあしらった花瓶や、見事な青磁茶器、備前焼風の土ものの花瓶、仁清写し、乾山風の梅の木の大皿などを制作します。
余談になりますが、高浮彫りの蟹を晩年に再度制作していますが、私は、再度蟹を作ったきっかけは別にもあると思うのです。
香山は亡くなる約一年前の大正4年3月に、帝室博物館で、明治時代に自身が制作した「蟹」を修理していることが明らかになっています。
香山は、約45年前に自分が制作した「蟹」に再び再会したのです。
そのときの香山はどのような気持ちだったでしょうか。。。
「懐かしさ」、「若き頃の熱き思い」、また「我ながらよくぞ制作したなあ」という関心するような気持ちも沸いてきたのではないでしょうか。
そして、73歳になっていた香山は「若いころの自分になど、老いてもなお負けてなんかいない!よし、もう一回もっと良い蟹を作ってやろう!」そんな気持ちになったのではないでしょうか。
(追記 その後、新たに遺作の蟹細工付きの花瓶が発見されました。その作品につきましては → http://kozan.blog.so-net.ne.jp/2009-04-09 2012年2月9日追記 )
その他の最晩年の作品はもっと、より伝統的な和風の作品です。
「蟹」を再度制作したのは、やはり修理のために自分の過去の作品に再会し、触発されたからなのではと思ってしまうのです。
(追記 源吉兆庵所蔵の渡り蟹作品の共箱には「七十三翁」と記されており、73歳のときの製作であることがわかります。これはまさに自身が明治時代に製作した蟹を修復した年であり、製作動機は修復による作品との再会ではないかと思われます。 また余談ですが田邊コレクションの渡り蟹作品の共箱には、「大正5年3月 この作品を名古屋住宅迄お届けする」という旨の記述が見られます。この作品の製作時期に関しては、文字どおり大正5年とする説と、源吉兆庵所蔵の蟹を製作した大正3年に同時に製作していたものを、お客様に届けた年月が大正5年であるという説もあるようです。 2013年2月6日追記 )
すいません、ついつい話がそれてしまいました。
明治40年代以降、真葛焼は伝統的な和風の作品を多く制作します。
そのときによき手本になるのは、古備前、古薩摩、古瀬戸、仁清、乾山などの骨董古美術品だと思うのです。
明治末期から大正と、第一次世界大戦に日本が参戦したりと、世の中は倹約を余儀なくされるようになり、骨董品の収集をするような雰囲気にはなかったと思います。
おそらく、それほど骨董品は売れなかったのではないでしょうか。
でも、安売りしたり、手放したりすることなく、最良の手本として真葛窯の参考館にずっと並んでいたのではと思うのです。
そして、、、。
大正12年、「関東大震災」が起こります。
さらに、昭和に入り「横浜大空襲」により壊滅的な被害を受け、真葛窯は窯を閉じることを余儀なくされます。
参考館にあった骨董古美術品は、残念ながらこれらの被害を受けてしまったのではないかと思うのです。
真葛窯と運命を共にしたのではと、、。
しかし、香山は、国内だけでなく海外にも、多くの作品を残してくれています!
私は微力ながら、それらの作品や資料を研究し、少しでも後世に引き継いでいくお手伝いが出来ればと考えています。
目指せ真葛博士!引き続きよろしくお願い致します。
いやあー今日は熱くなりすぎました(笑) すいません。。。
長い文章を最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
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