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弟子から「もーりん」と呼ばれていた香山


今日も、香山の人物像について探ってみたいと思います。

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税関長だった父とよく真葛窯を訪問していたという有島生馬氏の訪問記から見てみましょう。  

「真葛香山の工場にも何度か父に伴われて行った。大きな登り窯と、登り窯の間に、それこそ河原の砂利のように陶磁器の破片が一面ちらばり重なった上を人が平気で歩いていた。(略)香山翁はぴかぴか光るたちのはげ頭で、一見坊さんのようだったが、その眼光は鋭くはげ頭と光を競っていた。ちょっと近頃のピカソを見るようで、安心立命どころか、闘志満々、いまにも西京弁の毒舌が火を吹きそうであった。陶芸の衰微した当時、京の真葛原から新開地横浜に出て来て、外人相手にどしどし多数の名作を産出し、日本陶器のため一人で気を吐いていた。帰る時はわれわれにまで何かしら小品をくれた。」 (有島生馬 昭和40年 中央公論記念特大号より、一部略して引用)

眼光するどく、見るからにエネルギッシュで闘志満々だった様がうかがえます。

しかしながら、帰りに皆に小品をあげるあたりの気配りや、やさしさには暖かい人柄が感じられますね!!

次に、二代井高帰山が、父である初代井高帰山(香山の弟子で、特に目をかけられていたという)から伝え聞いた話に目を向けてみましょう。

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「父帰山は、私にあまり香山翁についてかたらなかったが、次のようなことは話していた。香山翁は芸術上のことのほか、仕事や日常の規律のようなものには到って厳しく、徒弟たちは翁をあだ名して「もーりん(巡査のこと)」とか「ジャンジャン」とかの呼称を口にした。「ほーれ「もーりん」が来なはった。」などと告げ合った。翁は、仕事が思うに任せなかったり、督励をしたりするとき、下げた両手を握って尻を叩きながら、注意やら励ましやらを、京都弁でちょっと押し出すような調子でして巡ったそうである。一方徒弟の可愛がりかたは無類で、親許、親類をはなれ故郷を遠く隔てた者たちには、時には親に時には神仏に見えた事もあるだろう。割合と待遇も良く、決してよそに気を反らせるようにしなかった。」
(二代井高帰山 「香山先生のことなど」 読売新聞社 宮川香山展 図録 )

仕事に関しては、相当に厳格であったことがうかがえますが、弟子たちに並々ならぬ愛情を注いでいたようですね!

弟子に、一流の洋品店で最高のフロックコートやシャツを買い与えたりした事もあったようです。

仕事には厳しいが、励ましながら、愛情いっぱいに育てる。


宮川香山は、偉大な芸術家であると同時に、よき師匠でもあったのです!

























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