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宮川香山 絵付けのルーツは池大雅!?


幼き頃、香山が絵と書を学んでいたという双林寺 義亮。

香山の絵付けのルーツは、そこにあるかもしれないと思い、いろいろと調べています。

「大雅堂」に関しましては、双林寺さんのホームページに詳しく解説が書かれていましたので、引用させて頂きます。

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「円山音楽堂の西南角にあり、現在「和光同塵」「大雅堂旧址」としるした石碑が建っています。ここは近世画の名手、池大雅(いけのたいが)の死後、その門弟たちによって建てられた大雅堂の旧址です。

 池大雅は、享保8年(1723)京都洛北の深泥が池(みどろがいけ)の農家に生まれました。23歳の頃には、八坂神社の境内で参詣人に画扇を売る大道絵師になっていました。

時を同じくして境内に百合という女性が茶店を出して、短冊などに歌を書いて売っていたのですが、こちらの方ばかりが繁盛し、大雅の画はさっぱり売れませんでした。

 気の毒に思った百合が絵を2、3枚買い求めたところ、あまりにも立派な筆使いに驚き、その才能を見込んで、娘、玉瀾(ぎょくらん)の婿にし、付近の下河原鳥居前(現在の畑中旅館のあたりと推定される)に住まわせることにしました。

その生活を営んだ住まいを葛覃居(かったんきょ)と称します。

八畳ばかりの座敷に取り次ぎがあるだけの狭い家でありましたが、狭いながらも楽しい我が家であったようです。

子供に恵まれない二人は、大雅が三味線を弾いて唄うと、玉瀾は琴を弾じて合奏し、ともに仲良く楽しんでいたということです。
 
大雅は、安永5年(1776)54歳で没し、京都西陣の浄光寺に葬られ、妻、玉瀾もその8年後、天明4年(1784)57歳で没しました。
 
大雅堂は、玉瀾の死後まもなく門弟たちが大雅の遺品を整理し、その資金を元にして旧居に近い雙林寺境内に建てられました。(現在は円山公園です)私設美術館とでもいったところでしょうか。

 建物は二階建て、階上、階下とも六畳の広さで、別室に金銅製の観音像が安置されていました。しかしながら、明治36年(1903)惜しまれながら取り壊されてしまいました。」(以上 双林寺さんホームページ http://www.sourinji.com/modules/tinyd2/index.php?id=2 より引用)

香山の絵の先生であった義亮は、月峯( ~1839享年76歳)の長男でした。

月峯は、大雅堂第二代堂守を、文化元年(1804)よりおよそ21年間務めた人物です。

義亮の父月峯は、池大雅の弟子で、8歳のときから池大雅から画を学んでいたそうです。

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以上のことから、香山は、池大雅二世月峯を父にもつ先生から,池大雅の遺作が並ぶ大雅堂で、池大雅の絵に囲まれながら、絵を学んでいた可能性も考えられるのです。

香山の絵付けの基本、背骨にあるのは、池大雅なのかもしれません。

今日は、図書館で、池大雅に関する本を大量に借りてきました(笑)

香山の描く山水画等と池大雅や月峯が描く絵にどんな関連がみられるのか、を研究するためです。

香山研究、テーマは尽きません(笑)

今日もブログを見て頂きありがとうございました。


p.s. 今日は大雅堂について調べるため、双林寺と池大雅美術館にお電話をしました。ご住職そして、学芸員の方もこれ以上ないというくらい親切に対応してくださり、いろいろと教えて下さいました。突然の電話にもかかわらず本当に有り難いことです。感謝いたします。
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