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宮川香山 真葛窯と有田焼(香蘭社)

昭和20(1945)年5月29日、横浜大空襲により三代宮川香山と弟子たちは命を落とし、真葛窯は閉鎖を余儀なくされました。


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横浜大空襲後の横浜 関内・伊勢佐木町地区(右奥に横浜三塔) 個人蔵


後に三代香山の弟である智之助が復興を試みましたが、それも長くは続かず、横浜における真葛窯の歴史は幕を閉じることになったのです。



しかし、真葛窯の精神は失われてしまったわけではありませんでした。

しっかりと現代へと継承されているのです。

今日は、大正~昭和期に真葛窯で腕を振るった弟子 柿沢市朗(明治36年~昭和57年)にスポットを当てます。


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晩年の柿沢市郎 『季刊 皿山』no.62より



柿沢市郎は、明治36年に石川県金沢市に生まれます。

18歳のときに金沢工業学校窯業科の助手になり(柿沢宅には、当時同校教諭であった板谷波山が下宿していたそうです)、大正10年、学校の推薦により宮川香山の下で修業をすることとなります。

約8年間、横浜の真葛窯でみっちりと修行を積んだ柿沢は、昭和2年に香蘭社へ入社します。

昭和33年に香蘭合名会社の美術品工場長、昭和35年には香蘭社陶磁器販売株式会社の取締役に就任します。そして昭和42年の退任後も、香蘭社の相談役を兼務しながら、深川製磁、幸右衛門窯など、有田の地で指導に当たったといいます。

「当時、柿沢さんの指導を受けた渕野博巳さん(塩田町)は、よく自作の試作品を見てもらうために、先生のアトリエに通つたそうですが、先生への一番の感想は「本当に花を愛する人だった、本物の花を見てデザインされていた。その当時、有田では珍しかった蘭やスイトピーをあしらったデザインが先生の得意とするところだった」と、また観葉植物のアジアン・タムリの細かい葉を一つ一つ丁寧に表現され、それも一枚一枚が個性をもって表されているのには驚きでしたと話されました。(中略)これが精妙な描写によって作品に現われ、潤いのある表情のある作品へと、つながって行ったと考えられます」『季刊 皿山』no.62より


真葛窯において、二代宮川香山はまずスケッチをすることを重視していました。
 → http://kozan.blog.so-net.ne.jp/2009-04-05

眞葛窯では、花をモチーフに、優美な作品が数多く製作されていたことはご存じのとおりです。

柿沢氏は、二代香山からスケッチの大切さをみっちりと指導されていたのだと思います。


横浜から真葛窯は無くなってしまいましたが、その精神や伝統は柿沢市郎氏の手により有田の地で継承されていったのです。

香蘭社や深川製磁の作品で、「お、少し真葛焼に似ているなぁ、、」と感じる作品に出会うことがあります。

そんなとき僕は、柿沢市郎さんのことを思い出すのです。



今日もブログを見て頂き、有難うございました。

眞葛 博士



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